日々雑論 歴史修正主義に関する考察 20 今までずっと引っかかっていた事なんだけどね

 まあ、このブログは当人が腐れ左翼面白主義である事もあって、過激な事=面白いを軸に、辺境の端っこサイトを良い事に出鱈目かつテキトウかつ感じたままに記してきたのですが、今回は少し真面目にいこうかなと。
 今までずっと引っかかっていたことの中で「転向」問題がありまして、簡単に「軟弱者!」とズダンと一刀両断していいものかどうかずっと考えていた訳ですな。まあ、そのきっかけとなったのが学生時代に亀井勝一郎なんかの体験談などを読んでからなのでもうかなり昔のことなんですが。

(略)もう六十を越えたらしい白髪の老人が突然質問を発した。彼は柔和な顔を僕のほうへ向け「ちょっとうかがいまするが」という風な朴訥な口調で、こういう意味のことを尋ねた。「あんたの仰ることは誠に尤もで賛成でございますが、ただ一つ思い悩んでいることがございますので、まあお笑いになられるかもしれませぬが…私はこの年になって家内や倅に先立たれ、こうして働いている訳ですが、あの、マルクスは、信心の事をどう言っとりますかな? 南無阿弥陀仏はいけませんかな?」
若い労働者の間から幽かな笑声が洩れた。
(国文学 解釈と鑑賞「革命の神話と文学」 松原新一 転向の問題 より抜粋)

 亀井勝一郎はこのときこの老人の対応に狼狽しながら、隣にいた党の指導者の気に入る答えをとっさにこの老人に「吐き捨てて」しまっているのだが…
もう一つ挙げてみる。

一軒の家に近づき道を聞く
すると窓も戸口もない
壁だけの唖の家がある
別の家に行く
やはり窓も戸口もない
見ると声を立てる何の姿もなく
異様な色に輝く村に道は消えようとする
ここは何処で
この道は何処へ行くのだ
教えてくれ
応えろ
背中の銃をおろし無言の群落に詰め寄ると
だが武器は軽く
おお間違いだ
俺は手に三尺ばかりの棒切れを掴んでいるにすぎぬ?

 黒田喜夫詩集「不安と遊撃」内の「空想のゲリラ」より一部抜粋である。
 亀井勝一郎が戦前戦中、黒田喜夫が戦後という違いはあるけれど、どちらが良くてどちらが悪いとか言うそんな単純なものではなく、思想というものに対しての重みを感じてしまっていたりしてるわけで。
 今の世の中蟹工船がブームだったり共産党員の入党者数が増えてたりと、前と違ってきているな、という感じは抱くんだけど、なんか今のネトウヨ連中に嫌悪感しか抱かないのはこの「重み」が決定的に欠けていると感じるからなのだ。
 前のエントリでもちらっと触れたのだが、右だろうが左だろうがいろいろな意見はなくてはならないし、またいろいろな意見があるからこそそれを取捨選択して取り入れられるのだが、ネットだろうが毒デンパだろうが屑本だろうが同じ内容と同じゲンロンで同じことの繰り返し。まあ連中が、自分とは違う意見を取り入れた時点でパンクするのは目に見えているのだけどね。
 ミギにしろヒダリにしろ「これだけの重み」を伴っているからこそ説得力も増そうという気にもなるのだが、どうも日本で思想が軽んじられているのも「転向問題」が根深い気がしている訳で。
この項つづく