日々雑論 光市事件と児童ポルノ規制、陪審員制度に対して思うこと

 いささか話題としては少し時期がずれたのだが、どーもひっかかりがとれてなかったのでずっと考えてました。
 確かに23歳の奥さんを殺されレイプされ、更にお子さんまで殺された被害者の夫さんと、犠牲者のお2人に対してはさぞ無念だったろうなという気がするし、(被害者の夫さんに関しては「かわいそうに」以上の感情が出てこないんですが)加害者が魔界衆として復活させるつもりだっただの(魔界衆復活ならお前がまず死ななきゃいかんだろ!)とかいう言い逃れにはツッコミ満載で呆れて物も言えないのも事実なんですが…
 なぜ引っかかっているのかというと、児童ポルノ規制法案と、厳罰化への世の中への動きとどーしても連動して考えてしまうのですねえ…
 マスコミがあまり触れ回らない事実がありますが、殺人事件は年々減少しています。が、手口の凶悪な犯罪が「目立つ」ようになってきている気がします。性犯罪と殺人罪と未成年とのミックスと言えば女子高生コンクリート殺人が真っ先に思い出されますが、他にも幼女を狙った性犯罪として宮崎勤事件もありますしね。
 で、少しくっちゃべってましたが、何が言いたいのかというと、「見せたくない物を覆い隠して蓋をする」やり方が果たしていいのか?という事なんですよ。「性」を国家なり権力なりがコントロールするのが果たしていいのか?と。
 決して加害者を擁護するわけではありませんが、それを踏まえていただいたうえで敢えて申し上げますが、この年頃の男は「セックスしたい」ばっかだと思うのですよ。ですが、淫行条例とかで社会的に無理だったりプロ相手だと金銭的に無理だったりするわけで。勿論それらの欲望を抑えるのが普通であることを踏まえて物を言ってますが、社会なり国家なりが性を封じ込めるようにコントロールしている為、コントロールから外れたごく一部が暴走してしまうのではないのかなと。ブレーキが壊れて暴走しているものを急ブレーキで止めようとしても無駄なように、頭の螺子が外れて暴走する人間に死刑をもって対応したとしても、犯罪抑止には繋がらないと思うのですよ。じゃどーすりゃいいんだ?と言われるとひじょーに困ってしまうのですが。
 赤松啓介なんかを読んでいたりするとなるほどねぇやっぱりねぇと思ってしまうのですが、幼少時から少年時へのときの共同体としての性のコントロールシステムの存在が、かなり重要なのではないか?と感じてしまうわけです。「夜這い」「手ほどき」「姫初め」「筆下ろし」等、共同体の中での性コントロールシステムが、柳田國男民俗学のような、生活習慣や慣習などの調査といったもののように、性の習慣は表には出てくることはありませんが、この表に出る事の無い「影」のシステムも、確実に必要なんじゃないのかなあ?と思ってしまったわけです。
 今ではネットでエロ情報なんざ幾らでも出てくるわけですが、またそれに対して規制をかけてコントロールしようとするのはそういった意味からでもどうなの?と思ってしまったわけですね。
 あと、周囲のマスコミが騒ぎすぎて鬱陶しいとか、これから始まる陪審員制度に関して、被害者に対してこんなにヒステリック且つ適切な判断が出来ない状況で進めちゃっていいのか?とか、日本の有罪率が凄く高くてその上に冤罪率もめちゃめちゃ高いのに、この状況ではもし冤罪だったらどーすんの?そのときマスコミどーすんだろ?とか被害者の夫さんが本出してますがセカンドレイプだよなーあれとか、そーいえば松本サリン事件のとき会社員さんが滅茶苦茶やられたけど真犯人がわかったとき会社員さんにマスゴミ含めて会社員さんに謝罪か何かあったっけ?とか、いろいろいろいろ疑問が出てきましたが、とりあえずここまで

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論

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明治大正史 (世相篇) (東洋文庫 (105))

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