日々雑論 死刑、もしくは光市事件と児童ポルノ法案について思うこと

 うーむ、どうやら光市事件は犯人の死刑が確定したようですが…どーも喉の奥に小骨がひっかかった気がして仕方が無いんですなぁ…
 あたしゃこれでも一応法学部の出なのですが、結構忘れることもありますが、死刑に対しては反対の立場を唱えております。忘れちゃったときには「おい、お前死刑反対だろ?」と突っ込んでいただければ「ごめんなさい忘れてました」とあやまるわけで。
 じゃ、なぜ「お前は死刑反対なんだ?」ということについてなんですが…
 これについては前にも述べましたが、もう一度改めて。
 まず第1点
 死刑制度が犯罪抑制にはつながっていない
 そんな事なんでわかるんだ?と言われれば、じゃあ今の世の中で死刑制度が厳然と存在するのに凶悪犯罪が起き続けてますが?と問いかけてあげましょう。死刑を実行してないからだ、と言われれば鳩ポッポがこの前実行しましたが何か?と言うだけですね。
 という事から、死刑制度をもってすれば犯罪抑制に繋がるというのは既に破綻してます。
 つぎ第2点
 更生のしようがない人間は何をしても更生しないんだから、死刑で脅して更生させようとしても無駄。
 よく、更生の可能性が無い人間を生かしておいていいのか?というのを見かけますが、どうあっても更生しない人間と言うのはやはり存在するとは思います。で、仮に死刑がある犯罪者に適用されたとして、他の更生不可能な犯罪者がそれを見て「あぁ、悪かった。更生しよう」と思うでしょうか? 更生しない、つまり懲りる事が判らないから凶悪犯罪を犯すのであって、それをもって死刑に対しても決して更生手段にはなりえません。これは第1点についても言える事なんですが、どんなに厳罰化したって凶悪犯罪を犯す人間は存在します。
 と言う事は、死刑制度そのものが既に制度として意味を成していない、ということに繋がるかと思います。死刑制度は既に破綻しているから、無理に続けずに廃止すればいいじゃん、と思うのだ。
 あと、被害者及び被害者の関係者感情を否定するのか?という意見もかなり聞く事が出来ます。光市事件はこの例ですね。この点について考えてみましょう。
 被害者、もしくは関係者の感情を加害者へぶつける事が出来なければ被害者がやられっぱなしである、という意味合いがあるかと思いますが…これには重大な事が抜け落ちてます。
 加害者が、被害者及び関係者の感情を理解出来ないから事件を起こしている、と言う事です。あくまでもここでは「理解できているかどうか」だけを問題にしています。精神疾患とか、責任能力とか、そのようなことは一切問題にしておりません。 
 例えて言うなら野球の試合中にバッターボックスに和服で生花とハサミをもって佇み、ホームベースの上に正座して茶を嗜もうとして全く不思議に感じてない天然素体のようなもんです。
 凶悪犯罪である事が全く理解できず、厳罰を持って裁かれるという事も理解してない相手に「極刑」つまり死刑を適用してもそれが果たして意味のある行為なのか? 先程の例だと茶道をする人に「ここは野球場ですよ? 茶道をたしなむ場所ではありませんよ」と教えてあげることが重要なのではないかと。
 じゃ、どうすればいいの?解決案はあるの?と突っ込まれると弱いんですが、頭の螺子が外れてるのだから、まず螺子を作って入れてから、終身刑などにもっていくのが現実的かなあ?と少し感じてます。
 で、光市事件に関してですが…マスコミのうざい報道で制御棒の抜けた原子炉のようにヒートアップしましたねぇほんとに。被害者の方とその関係者の方には「御気の毒です」としか言いようが無いんですが、加害者の行動を見るに、どうしても指摘せざるを得ない事がありまして。
 まあ、前にもここで既に言ってるので何度も繰り返しませんが、「性衝動」を避けて通るわけにはいかんでしょう。
 で、その暴力的「性衝動」を封じ込める為に児童ポルノ規制法などのような「情報」を封印する手段は如何な物かと思うわけで。
 再度取り上げますが、赤松啓介にもある通り、昔のほうが恐らく「犯罪」としては「目立たなかった」もしくは「犯罪」として成り立つ要素、条件が非常に少なかったのではないか?と思えるんですよねえ。勿論「津山事件」等という例外もありますが。
 前回と結構同じ事言ってるような気もしますが、今回はこれで勘弁してください。

夜這いの民俗学・夜這いの性愛論

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