日々雑論 [秋葉原無差別殺傷事件]彼には逃げ場がなかったのだろうか?

秋葉原の無差別殺人について、引っかかる事が一つある。
彼には逃げ道がなかったのだろうか?
以下 yahoo記事の夕刊フジよりほんの一部だけ抜粋 太字及び赤字はこちらで加工

自らを「携帯依存」と呼び、5月中旬以降だけで約3000回に上った加藤智大容疑者(25)の携帯サイトへの書き込み。ほかにアクセスする人もなくなり、「やりたいこと殺人」「彼女がいない。それがすべての元凶」

本来なら全文載せるところなのだが、流石に惨刑グループの夕刊フジ、全文載せるとこっちの鬱病が悪化しそうなのでこれでやめておく。今日はあんまり元気ないし。
それにしても…まるで生まれて今方殆ど彼女無しで過ごしたオイラ見てるみたいで凄くイタイのだが、彼に逃げ場はなかったのだろうか?
ここでいう「逃げ場」というのはただ単に住まいとか金とか身分証明とかの物理的な「逃げ場」でなく「精神的な逃げ場」の事なのだ。
確かにオイラも高校のときとか勉強も駄目、スポーツも駄目、何もかも駄目という大江健三郎「セブンティーン・政治少年死す」の主人公の生き写しで、よく理由も無いのに腹が立って腹が立って仕方が無かったのだが、幸いな事に「図書館」という逃げ場があった。「図書館」で誰も借りてないような本を借りて「意味がわからなかろうが」読み倒す事で何とか逃げ場を確保していた気がする。
ここから少し昔のイタイ思い出話になるが、ご容赦願いたい。
私も実はいい年になるまで内心欲しいと思いつつ「彼女なんかどーでも」とウソぶいてたのだが、私が過ごした「学生時代」はポストモダンメタフィクションの全盛期で、文学こそが超最先端でありアンダーグラウンドの一番過激で深い部分であったのだ。どんな流行もポップスもカラオケもゲームも所詮いい所まで行ったとしてもサブカル止まりで、まず文学、を齧らなければ「サブカル」の先、深い、最先端に到達する事は難しかったのだ。
ウソつけ? いいや間違いなく本当だ。
社会現象までになったエヴァンゲリオンの引用を見るがいい。実に多くの文学やSFが引用されている。
映画「ブレードランナー」の再評価により原作のP・K・ディックが連動する形で再評価。今では考えられないけどハヤカワや創元SFなんかディックの再販ばっかりだった。
SFや漫画、今で言うサブカル内でもいわゆる「サイバーパンク」が一段落し、そこから更に過激な面白いものを発掘するなら「文学」にさえ首を突っ込めばよかったのだ。世間の流行を鼻で笑い、トマス・ピンチョンなどの実験文学などに手を染め、更にSFや実験文学は現代アートともリンクしていたのでメイプルソープの写真やベネトンの広告などにも首を突っ込み、SFやってりゃ模型やフィギュア等から村上隆*1、平林薫などの日本現代芸術へも齧ることが出来た。
いわば「逃げ道」としての根幹部分で「文学」が機能しており、幅広く他の分野とリンクしていたわけだ。
しかしそれも終焉のときが来る。
自分にとっての「終焉」はウィリアム・バロウズの訃報*2だった。
これは凄く堪えた。
人はいずれ死ぬものだし85歳という年齢、更生はしたがヤク中だったりした事を考えると大往生である。のだが…
最期の著作に「夢の書」がある。
これを読んで凄く堪えたのだ。
何が堪えたかって?
バロウズが弱音を吐いている!
訳がわからない? では山形浩生氏のあとがきを一部引用する。幸い「だまってどうぞ」とあるし

これを書いているのは、一九九八年の四月。昨年後半、ぼくは何本バロウズの追悼文を書いたろう。それらはこの本の翻訳と並行して書いたので、いきおいその多くは、いまの疑問を繰り返すものとなっている。あんなうらやましいほど自由で無責任な一生を送ってきたバロウズが、最期に徘徊していたのは後悔と悲しみに満ちた思い出と夢の中だったとは。なぜだろう。それしかなかったんだろうか。

 結局はそれは、敗北だったのかもしれない。自由と無責任を捨てて大人になり、家庭を築いて親を看取り、子供を育てて孫に囲まれて往生――実はそれが本当の幸せというものであり、モラトリアムには後悔と悲しみしか運命づけられていないのかもしれない。

 でも、敗北であるにしても、それは偉大な敗北であった。バロウズ以外の人間が、前に述べたようにだれもそれをここまでつきつめることはできなかったんだから。ほかの連中はドラッグに殺され、宗教で首を絞められ、ボケに襲われ、耐えきれずに自殺――バロウズだけが、自由と無責任をつらぬきつつ、最後の最後までピンピンして生き続け、大往生をとげることができたのだ。少なくともかれは、そこまではやってみせてくれたのだ。

 バロウズの同時代人はもとより、かれのもっとも正統的な後継者と目されていたキャシー・アッカーでさえ、それはできなかった。彼女が乳ガンで一九九七年暮れに死亡したことをぼくたちは報されたのだけれど、それがメキシコかどこかのインチキ・ニューエージ・ヒーリングクリニックだったことには少なからず驚かされた。あの(必ずしも頭はよくなかったけれど)パワーに満ちたやりたい放題の姐ちゃんが、いざとなるとそういう無様で見苦しいうろたえ方を見せるとは。アッカーはどこで道をはずれてしまったんだろうか。ぼくたちはそれを考えてみなくてはならない。知性と、意志と、立ち回りと、ほんのちょっとの運さえあればだれにでもできそうなバロウズのまねが、なぜこんなにもむずかしいんだろう。それをきちんと考えてみる必要がある。自分たち自身のために。

結局、いくら突っ張っても、モラトリアムには敗北しかないのだ。どんなに足掻いても、どんなに知識と理論で武装しても、モラトリアムである以上、結局は後悔と悲しみなんだろう。
それは判っている。
恐らく、彼も「それ」を心で感じていたのではないか?
加えて「文学」と違い「ネット」の賞味期限は驚くほど早い。
 「文学」であればほぼ自分で領域を掘り返すのに、芋づる式に手を出すと下手すると一生かかる(ほんとだよ。まず全部読まなきゃいけないし読むためには探さなきゃいけないしね。今と違って探すの苦労したさ。バイト先の古本屋店長に滅茶苦茶分厚い日本全出版目録借りてひいひい言いながら絶版かどうか調べたさ)
しかし「ネット」はどうだろう?
 グーグルやヤフーで検索すれば「余程のものでない限り」まず何かしらのネタが出てくる。しかも一瞬だ。更に加えてコピーペーストで「自分の欲しいところだけ」つまみ食いだって自由自在。ただしそこから先は藪の中。今の論客のレベルが低いのも恐らくこれが原因だと思うが、彼の発言などを見るにつけ、そんな「賞味期限の早さ」と「底の浅さ」「モラトリアム」をどうしても感じてしまうのだ。
 恐らく世間一般のマスコミや風潮は「それ」に言及する事も無くただ「異常」と決め付けて報道している事だろう。上記のフジの記事もそうだし。だが、「それ」を発生させる原因が何か?をきちんと考えない限り、似たようなケースは程度の差はあれ出てくるのではないのだろうか?これだけ細分化、階層化し、何を調べるにしても「ネット」どまり、加えて賞味期限は一瞬だ。
 未だに「それ」は判らないし、今後ずっと、恐らく死ぬまで「それ」が何かは判る事もないかもしれない。ただ、やはりこういった事件を考えるときに「それ」を抜いてしまうと片手落ちになり、なんら具体的な対策が取れぬままになってしまう気がする。
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*1:と言っても小説家のほうじゃないよ。女の子フィギュアを使った作品で知られる現代芸術家で、ソッチ方面でも評価が高い

*2:誰にも読めない小説を書き続けた人。ウィリアムテルごっこをして自分の奥さんを撃ち殺したりインドへ逃げてヤク中になったりナイキのCMに出たりお稚児さん囲ったりとやりたい放題を尽くし、事実は小説よりも奇なりを自ら証明して見せた。これもウソや冗談みたいだけど本当だって。信じてくれよ。アンサイクロペディアから取ったんじゃないってば!代表作「裸のランチ」をクローネンバーグ監督が映画化してる