日々雑論[死刑廃止論] 実際凄く怖いんだけどねこーいうの

 ま、この世知辛い世の中ですが、物価は上がるは景気は悪いは金持ちばっかり得をして貧乏人は粋すら楽しめねぇというつまんねえ世の中になってますが、見てて凄く鬱陶しく且つ香ばしいものに「やほーのコメ欄」がありますねぇ。
 見てて本当に野暮天の塊で。
 「まだ容疑者」の段階なのに「死刑」「死刑」と阿呆の一つ覚えみたいに喚いた挙句、冤罪だったら一転して司法側をこき下ろす。あの姿勢は何とかならんもんだろうか。
 見てて本当に見苦しいったらありゃしねえ。 
何度も引き合いに出してこっちもいい加減鬱陶しいのだが、いい例が「松本サリン事件」だ。サラリーマンの被害者が、「たまたま」それらしい薬品の瓶を持っていたというだけでマスコミや付近住民から凄惨な「私刑」を食らったにもかかわらず、地下鉄サリン事件等で事実がわかるとソッチに注目が行ってしまい、マスコミ等が「公に」謝罪したのを見た記憶がまるで無い。
 こうやって「ぶれる」連中の放言なんざ信用できると思うかい? 
 ま、それはそれでさておいて
 相変らず死刑廃止のお話なんだけど、ずっと前に「体制から見たら政治犯の場合は死刑は廃止したほうがいいよ」という様な事を言った。
 確かにそりゃそうなんだけど、という事で続きの話。
 中華人民共和国で「戦犯」として捕まった連中は「認罪学習」により、自らの罪を学ぶまで自由に学び、活動を赦されていたのだが、ここにオイラの挙げる肝である死刑廃止」の核心が隠されていると思うのだ。 
「殺る奴」は「殺る事」を何とも思っていないから「殺る」のであって、どんなに厳罰化しようが「人を殺す事を何とも思ってない人間」が「それを見て」減る事は無い。だって損得勘定で殺す訳じゃないからだ。 
ならば単純に「厳罰化」より「罪を認める学習」を「犯罪者」に叩き込んだほうが遥かに宜しいと思いませんかねえ?という事だな。思想犯やテロリストに対しての死刑が全く意味の無い事は前にこのエントリで述べたからソッチを見てくれればいいとして、体制にとっちゃ「何かあったら厳罰で臨むオカミ」というのはある意味博打なところもある。 ま、住民反乱に対しての武力行使過去の早警戦に代表される大学闘争で既に明らかだし、近い例では韓国の蝋燭デモやG8サミット反対デモに対する体制側の横暴を見れば一目瞭然だ。 
「オカミ」が一番恐れるのは「制御不可能」なものである以上、それを一番簡単に排除できる方法が「死刑」であるため、「死刑」がある以上「体制」は不完全なものであるとも言える。そうやって考えるとまだ「死刑制度」が存在している日本は、「体制」としては未だに不完全であり、ここに付け入る隙があるようにも思えるのだがどうだろうか?