日々雑論 歴史修正主義に関する考察 番外編 河野氏引退に関してあれやこれや

 ま、この前のエントリで少しだけ触れましたが、河野氏が引退を決意なされました。
 で、これに対応するインテリモドキの頭のおかしいコメが沢山沢山雨後の竹の子のように湧いて出て居るのですが、ほんとーに頭のおかしい方々の具体的な発言内容はid:Prodigal_Son様がこのエントリで公開なさっているのでそちらに譲るとして、こちとらは河野談話とそれに反応したキなインテリモドキの対応から、ちーとばかしいろいろ駄文を連ねてみようかと思ってます。

 まず、河野談話をとりあえず抜き出してみましょうか。

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。
 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。
 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。
 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。
 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。
 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

 一目見るだけでは「一体何が問題あるの?」といった感じしか受けないんですよね。が、これがどーも気に食わない連中がいるらしい。
 で、ミクシィなんかでアチキも脳内麻薬垂れ流しまくりの連中とやり合っていたのだが、やりあううちに一つの疑問が湧いて出た。
 何の疑問かつーと、戦前と戦後の断続性と連続性についてなんだな。
 何が言いたいか、つーとですねえ。
 この河野談話から伺えるに、「日本の戦争責任」を「既に組織として存在しない」軍のみに押し付け、「今の日本は昔とは違うんだけど昔の日本は悪い事したからごめんなさい」とも読めちゃうんだなぁ。
 前にもこのエントリで取り上げたと思うんですが、もう一度ぶち上げます。以下、至文堂 現代のエスプリ 特集「ファシズム」 解説―ファシズムとは何か―より一部抜粋します。

(略)今、この戦前・戦後の連続・非連続の捉え方を、倫理的にパターン化してみると次の三形態に分類できるであろう。第1には、非連続性の前提の下に、戦前、戦中の政治責任は、戦後の全く異なった政治体制の下で解消したと主張するパターンである。これは日本人の責任論に特徴的な「水に流す」論法で、政治的にしばしば「みそぎ」論として展開されている。

 第2の形は、連続説的で、戦後民主主義体制の底部には政治責任の未解決から来る潜在的ファシズム化の潮流が流れているのではないか、という見方である。このような見解は国内にもあるが、文部省の教科書検定を批判した中国や韓国などの日本を見る目の中にも、このような疑念を潜ませている事は否定できない。

 第3は同じく連続的であるが、そもそも日本にファシズムなど無かった。戦前も戦後も、ことによると5か条の誓文が出された明治維新以来、日本は一貫して民主主義的リーダーシップんも下にあった。したがって連続しているのは当然と言う考え方である。この場合民主主義の意味がForThePeopleに限定され、ByとOfは除外されているのが特徴的である。このような主張はたとえ明示的でなくともムードとして、感覚としては広範に息づいている。恐らく経済の高度成長以来の日本人に支配的なムードは、第1と第3のパターンを混合した線に帰着していると言えよう。我々はあまりにそれになれすぎているため、外からの指摘を受けて驚くのである。(略)

 更に進んで、今のキなインテリモドキの頭の中は「ニッポソゼンゼンワルクナイ。ワルイノハキチクベーエートチャンシナ」となんかのお題目が脳内に刷り込まれているのでこのファシズム解説よりも更に劣化が進んでいるのが容易に推察できるんだが、河野談話にしても、ここでいう第2の、戦前と戦後の連続性については暗に否定している、という事だ。つまり、戦前と戦後はすでにまったく別のものであり、戦前の非道行為を、戦後とは違うとした上で、戦前の行為を謝罪と反省をしているに過ぎないものである、という事が言えるのではないか。更に加えて今の状況を見てみると、前のエントリでも3回にわたって取り上げましたが、丸山真男の日本ファシズム論がぴったり当てはまる事にも思い当たる。何処が当てはまるの?といわれると…
 この部分

日本におけるファシズム運動も大雑把に言えば、中間層が社会的な担い手になっているという事が言えます。しかし、その場合には更に立ち入った分析が必要ではないかと思います。わが国の中間階級あるいは小市民階級と言う場合に、次の二つの類型を区別しなければいけないのであります。第1は、例えば小工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役場の吏員・役員、そのほか一般の下級官吏、僧侶、神官というような社会層、第二の類型としては都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナリスト、そのほか自由知識職業者(教授とか弁護士とか)及び学生層−学生は非常に複雑でありまして第1と第2と両方に分かれますが、まず皆さん方は第1類型に入るでしょう。こういったこの二つの類型を我々はファシズム運動を見る場合に区別しなければならない。

 わが国の場合のファシズムの社会的基盤となっているのはまさに前者であります。第2のグループを本来のインテリゲンチャとするならば、第1のグループは擬似インテリゲンチャ、乃至は亜インテリゲンチャと呼ばるべき物で、いわゆる国民の声を作るのはこの亜インテリ階級です。

 何が言いたいかってか?
 インテリモドキがインテリぶってギャンギャン喚いてるって言いてぇんだよ。 
 日本においての世論形成において、インテリモドキの発言が五月蝿くてかなわないのは丸山論文でも挙げられたとおりだが、日本文化云々とぶち上げるくせに衆道なんかの粋の外道遊びを全く知らなかったりそれを知ると気持ち悪がったり毛嫌いしたり、赤松啓介などの地方の性民俗学に首突っ込んでみたりすると途端に不潔だの何だの喚く輩が多すぎる。
 ま、少し話がずれましたが、何が言いたいんだオラといわれると、次に集約される。
 河野談話は戦前の軍の関与を認め、謝罪した点では一つの進歩だが、戦前と戦後の断絶性を基にして展開されている事で、戦前の責任を軍隊などと言った既に存在しない一連の体制へ押し込めており、談話内では現体制において引きずっている責任に対しては何ら言及しておらず、この点において非常に政治的な判断と一連の狡猾さを感じてしまうのだ。そういう意味でも非常に頭の斬れる、国内世論国外世論責任問題に配慮した頭のいい談話だと思うし、また、こういった頭の廻る方が引退となると、まあ、後はおして知るべしだな。