日々雑論 歴史修正主義に関する考察25 日本「だけ」が本当に悪いのか(実際悪いんだけどね)その3

 ここ最近「日本」だけが本当に悪いのか?というタモガミ作文に対するアンチテーゼみたいな感じで事を進めておりますが、まーあっちとちがってこちとら吹けば飛ぶよな木っ端ブログなのをいい事に、誰にも気兼ねなく出来るのがいいですな。
 で、結局日本の「何が」非常に悪質なのか?というところに落とし込む訳なんだけど、常に「何か」に「帰属していない」と気が済まず、他とは違う「異質な物」を「腹の内では」絶対に認めようとしない所にあると感じる訳で。
 なんでいきなりこんな事述べ始めたかというと、まあ前からぼちぼちとは思っていたことで、なかなか上手い言葉が浮かんでこずに何か当てはまるものは無いかと始終考えていた訳だけど、敢えて誤解を恐れずにいうならば、「農民と百姓の違い」という事だ。
 一緒じゃん?と思うかもしれないが、どーやらこれが違うらしい。
 まあ、何処がどう違うのかというと説明に苦しいのだが、以下、「どーもすいません 平岡正明/上杉清文対談集」より一部抜粋してみる。

上杉:(略)結局、今が変わるのが嫌だってのが百姓の思想でしょ。弥勒信仰にしても,そのほかの仏教思想にしても,変わっちゃ困る訳ですよ。竹が花をつけるときに、大凶作が来るって、弥勒信仰が流行ったりするんですけど、これは積極的な世直しじゃなくって、何とか変わらないで欲しい、凶作が来ないで欲しい、て事なんですね。生まれ変わりも、自然とともに待ちましょうみたいな、飢饉のときでも平岡さんのような打倒ナントカって形では出ないんですね。
平岡:ロシアの農民と中国の農民は革命的なんです。
上杉:でも、ロシアと中国は農民だが、日本は百姓だ、て言うんでしょ

 この「どーもすいません」は現代の弓削道鏡、日本のラスプーチン上杉清文」と、怪獣思想家にして革命家「平岡正明」の対談バトルロイヤルみたいな感じで終始冗談とギャグとネタで進んでいくのだが、それらのゴミを一つ一つ丁寧に取り除けば百科全書になってしまうという非常に手強い、不気味な対談集だ。当然1981年の出版だから一つ一つの芸能界ネタなどは古びてしまっているが、逆に根っこの過激さは今でもマグマのように沸騰している。 
 で、ゲラゲラ笑いながら読み進めて行ったのだけど、はたと途中で気がついた。
 ここに「日本」の相当に悪い所があるわけだ、と感じてしまった訳で。
 「変わらない事、何かに帰属している事」を大前提として、少しでもそれらとは異質な物に対しては徹底的に侮蔑、冷笑をもって対峙する 
 この一点において非常に嫌なものを感じてしまったのだな。
 よくネトウヨなんかが日本国憲法を「押し付け憲法だ」と喚いているが、何度やっても欠陥だらけのポンコツ帝国憲法の焼き直ししか出来なかったから日本国憲法を叩き付けられただけであってオイラに言わせりゃ理解できなかった阿呆ドモが悪いとしか言えないんだけど、どうやらこの「思想としての百姓」に対して非常に根の深いものを感じている。