日々雑論 過激と規制の間でふらついているんだけどね

 えー、ネトウヨデンパ連中がここんところ比較的静かで大変鬱病によろしく、調子がかなり上向きで結構な状態なのですが、シンガポール華僑大検証の内容が、ある程度予測はしてたのですがはっきり言って予想を上回る壮絶さでして…自身の頭の中で纏めるにはもー暫く時間がかかると言うかなんと言えばいいのかなんですが…気を取り直して
 前にも「児童ポルノ規制法」の関係でちらっと考えてみたのですが、余計に袋小路に入ってしまって…いわばその脱出のための目印にと思い、くだらねえ駄文を記しているわけなんですが…
 「過激な表現」と「権力による干渉」のバランスをずっと考えていたわけで。
 「靖国」報道に関してはただ「グダグダ言わずにちゃっちゃと観せろゴラァ!」と喚いていたわけですが、私の基本スタンスとして「表現」を「判断する自由」は提供されなければならない。というのがありまして、「表現」に対して「観る」という事を奪われた!と思ったからなんですよね。勿論「靖国」が過激といってるわけではありません。どーいう事かと申しますと、ボブ・フラナガン自傷パフォーマンスを過激なアートと捉えるかただの変態行為と捉えるか、との差異にも感じるんです。そんな事言ってたらジョン・ウォーターズピンク・フラミンゴとただのスカトロビデオとの差はどーなんだコラ?とか片山健の鉛筆画とエロマンガと比べられるんか?とか言い出したら全くきりが無いんですが。まぁ、私としては「どっちも観れる状態であればええんでないかい? 観に行く人の判断だし」としか言えない訳で。
 「自主規制」を含む有象無象の権力が「表現」に口出ししてもロクな事にならんのですが、どーも世間一般で言う「良識」とやらが頭の中で引っかかる。「光市事件」に関しても過剰反応した「良識」が「マスコミ」にリンクし沸騰してるなあという感じをどーしても拭う事が出来ないんですよ。勿論「良識」自体は否定しませんが、それが過熱して吹き上がると「権力」に取り込まれたり、おのずから権力を生み出したりする事になり、時と場合によってはおぞましい結果になりかねません。更にタチが悪いのは各々が「良識」に基づいて行動しているため、それが明らかに悪い事でも「罪悪感」を全く感じないという恐ろしさがあるように思えてならないんですな。
 歴史妄想デンパ主義叩きと違って、この手の思考実験はなんかあまりすっきりしないんですが、この手の問題を考えると、確実に「良識」という名のソフトファシズムの存在をひしひしと感じるんですよ。「靖国」上映自粛問題のような「わかりやすい」ハードとしてのファシズムならまだ対処の仕方もあるし、方法論もわんさか出てくると思うのですが、いかんせん「ソフトファシズム」への対処となるとこれがなかなか難しい。
 「過激は面白い」「面白い事はいい事だ」確かにその通りだし、他人に被害をかけない限りにおいては目をつぶるのも止む無しとも思うんですよねえ…前振り凄く長かったですがここから本番です。「児童ポルノ規制法」ですが、親が子供の成長記録として親のブログに子供の画像のっけるのは十分アリだと思うんですが、それで劣情催す人間を裁くつーのはチョットネェとも思うわけですよ。まあ、その場合はブログをプライベートモードにするとかいう手段もありますが、「ほらほらうちの子可愛いでしょ?」的な感じで他人に見せて喜ぶ親も居るわけで。でなきゃ年賀状に自身の子供の写真をつくって出さないと思うし。で、それを見て欲情するかどうかはその人次第だし。大多数はしないと思いますが。
 何が言いたいか言うと、「受け手(見る側)に圧倒的な思考の自由がある以上、この手の規制をしても無駄」なのではないか?と思うわけなのですな。勿論実行は許される事ではありませんけど、加えてロリ絵で劣情を催す催さないも受け手の感性であって、それを「気持ち悪い」と取るのも感性だし「うんうんよくわかる」と取るのも感性だと思うのですよ。で、この感性とやらが百人居れば百人の感性がある以上、これをむやみやたらに縛るのも疑問に思うわけで。
 既に「表現の自由」の問題は「チャタレイ夫人の恋人」事件の昔から散々言い尽くされてきて、既に墓場で墓穴掘って棺桶の中に入ってしまっている問題ですので言及は避けます。ただ、自身の持つ「良識」とやらをたまには見直して、考えてみてもよいのでは?と思ったわけで…あぁ、今回も纏まらねえ…