日々雑論 「体制側」からの死刑制度廃止論

 何時もであれば、てきとーにおちゃらけてお茶を濁したり、「面白主義」に従ってだらだらくっちゃべったりするのだが、今回ばかりはそうもいかない訳で。一寸いろいろ考えてみたのだが考えれば考えるほど頭が重くなってきたのだ。だがここで怯んでいてもちっとも前にすすまないので、いったん自分の頭の中でケリをつける意味でもここで纏めておきたいと思う。
 「あいも変わらず死刑廃止かよ」と思われるかもしれないが、こちらとしても「はいそうです」としか言いようが無い。ただし、ここから先が何時もと違うのだが…
 「政治犯」「テロリスト」をどう扱うか? 世間の安寧を乱し、多数の死者を出した極悪犯は殺すべきではないのか?と言う意見がある。この意見は非常にもっともらしく聞こえるし、結構大勢の人がこのように考えているのではないだろうか?いろいろ眺めてみると「死刑廃止論」の方は「人権」などから進めているように見えるし。
 まず結論だけ「体制側から見ると絶対に死刑にしてはいけない」
 何故かって? そうせかしなさんな。
 ジョージ・オーウェルの1984年という小説はご存知だろうか? 全てにおいてビッグブラザーと呼ばれる存在が統治する、ディストピア社会を描ききった傑作であるが、これを読んでいる方は、今から言おうとする事がピンと来たのではないだろうか?
 ネタがマイナー? では、日本の有名な漫画で行こう。
 白土三平カムイ伝」を挙げる。読んだ事は無くても名前くらいは知っているだろう。被差別階級のカムイが忍者になるのだが、忍者の世界も階級が存在する事を味わって「抜け忍」になる物語である。昔テレビアニメにもなったし、第1部〜外伝〜第2部と続いているので読んだ人も沢山いるかと思う。
 村一番の若衆が、他の村人と一緒に村の窮状を直訴しに行くのだが、若衆を除いて全員死刑、若衆は舌を抜かれ、喋れなくしてから放免されるのだが…
 第1部のラストで、統治者側である代官が一揆と直訴を処理したときに腹心に向かってこんな感じの言葉を出す。
「殉死した者は英雄…生きて帰ってきた英雄には三文の価値も無い」
 今手元に無いので正確な言葉ではないと思うが、案の定残された村人の憎しみは「一人おめおめと逃げ帰ってきた」若衆に向けられてしまう。
 1984年の方では主人公が反体制組織に近づくも、警察に囚われ「改心」させられてしまう。
 何が言いたいか。
 私の基本スタンスとは大いに外れてしまうので非常に苦しいのだが、「政治犯」や「テロリスト」を「国家」が「死刑」にする事や「冷酷無比な拷問を行う」事で「美しい殉教者」としての地位を与えてしまうのではないか?と考えてしまうのだ。闇雲に死刑にしてしまう事でその死が美化され、体制に対しての反逆を美しいものにしてしまう。見たところこの手の死刑廃止論はあまりお目にかからないのでまだ救われるのだが、こういう意味での死刑廃止論は非常に怖いのだ。正直いっそのことこういう事を考えてしまうと反権力のスタンスでは死刑存続のほうがいいのかもしれないと何度も考えてしまう。
 戦前の日本でレジスタンス運動が非常に少なかった、あるいは目立たなかったのは「転向」というシステムが巧みに機能していたからだ、という話もある。少なくとも「体制」の維持を考えると「抵抗者」を「美化」しうる条件を極力少なくしなければならない筈であり、「国家による殺人」つまり「死刑」もその条件に見事なまでに当てはまる。そうやって考えると「体制維持」を図るために「死刑」を適用するのはむしろ逆効果でしかないように考えるのだ。むしろ、「犯罪者の思想」を「転向」させ自己否定させる事で、今までの言動を自身によって「醜い物でしかない」と宣伝させるほうが将来の抑止力として遥かに効果がある気がする。 
 ただ、私の基本スタンスが「反体制」「面白主義」なのは今までこの腐れブログに付き合っていただいた方ならまる判りだと思うので、今回の「死刑廃止論」は自身の基本スタンスと180度正反対のほうを向いているのが非常に心苦しい。今まですき放題ブログをつけてきたわけだが、ネタがあるのにこれほど苦しいのは初めてである。 何時に無く弱気だな。まあ苦しいので助けて欲しいというのもあるが(苦笑)