日々雑論[資料紹介] 丸山真男 日本ファシズムの思想と運動 その3

 ぼちぼち終わりに近づいてきましたが、前の続きです。この丸山論文は非常に的を射た論文であり、当時の日本ファシズム研究だけでなく、今のネトウヨ考察やニッポソ研究にもあてはまると確信しています。それでは、続きです。

承前)要するに第1の範疇の中間層の演ずる役割は、丁度軍隊における下士官の演ずる役割と似ていると思います。下士官は実質的には兵に属しながら、意識としては将校的意識を持っております。この意識を利用して兵を統率したところが日本の軍隊の巧妙な点です。兵と起居を共にし兵を実際に把握しているのは彼らであって、将校は「内務」からは浮いてしまっています。だから中隊長は兵を掌握するには、どうしてもこの下士官を掌握しなければならないのであります。これと同様な現象なのでありまして、この第一の範疇の中間層を掌握するのでなければ大衆を掌握し得ない。こういった地方の「小宇宙」の主人公を誰が、いかなる政治力が捕らえるかによって日本の政治の方向は決まります。それは過去でも現在でも同じことです。しかも注意すべきは第一範疇の中間層の知識、文化水準と、第2範疇の本来のインテリとの水準との著しい隔絶であります。私は外国のことはよく知り前sんが、こんなに大きな隔絶があることは日本の大きな特色ではないかと思います。イギリスでも、アメリカでも、ドイツでさえも、もっと連続しているのではないかと思われるのでありますが、-この料層の教養の違いが甚だしい事、他方第1の範疇の中間層は教養においては彼らのは以下の勤労大衆との間に著しい連続性を持っている事、大衆の言葉と、感情と、倫理とを自らの肉体を持って知っている事、これがいわゆるインテリに比して彼らが心理的によりよく大衆をキャッチ出来るゆえんです。しかも尚彼らを私が擬似インテリとか、亜インテリとか呼ぶのは、彼等自身ではいっぱしインテリの積りでいる事、断片的ではあるが、耳学問などによって地方の物知りであり、特に、政治社会経済百般のことについて一応オピニオンを持っている事が単なる大衆から彼らを区別しているからです。床屋とか湯屋とかあるいは列車の社中で、我々は必ず、周囲の人々にインフレについて、あるいは米ソ問題について一席高説を聞かせている人に出会うでしょう。あれがつまり擬似インテリで、職業を聴いてみるとたいてい前述した中間層に属しています。
 これに対して日本において、第2の範疇の中間層が一般の社会層から知識的=文化的に孤立した存在であるという事は、総合雑誌というものの存在、純文学という妙な名前があること、岩波文化といったもの、-これらがいずれもインテリの閉鎖性を地盤にして発生している事にも象徴されておると思います。例えば「タイム」や「ニュースウィーク」は非常にポピュラーなテーマとより高級な政治経済の評論の如きものが両方同じ雑誌に載っているのでありますが、ああいった雑誌が何故日本に出来ないのか。岩波文化があっても、社会における「下士官層」はやはり講談社文化に属しているということ、そこに問題があります。そこでこういう層を積極的な担い手とした日本のファッショ・イデオロギーはドイツやイタリーに比してもいっそう低級かつ荒唐無稽な内容を持つようになったのは当然の事であります。ドイツなどでは兎も角一流の学者教授がナチの基礎付けをやったわけですが、日本ではどうでしょう。無論ファッショのお先鋒を担いだ学者も少なくありませんが、まず普通は表面は兎も角、腹の中では馬鹿馬鹿しいという感じのほうが強かったようであります。日本のファシズム的統制の末端が極めてファナティクな物あるいは滑稽な物になったのは、おおむねこういう層を媒体としたからであります。例えば竹槍主義の現実的な担い手となったのはかかる地方的指導者であります。軍の上層部が竹槍を持って高度の武器と対抗できるという事を、いかに軍人が無知であっても真面目に信じていた訳ではない。そのくらい百も承知している。そういう竹槍イデオロギーの強調によって物力の足らない点を精神力でカヴァーしようというのですが、首脳部は無論そういう高等政策のつもりで、タクチックとしていっている。ところが、そうしたイデオロギーが下に浸透して「小宇宙」の親方を通過するときには本物になってくる。真正面から竹槍主義で始動する。防空演習において以下に馬鹿馬鹿しい指導が行われたかは我々の記憶に尚新たですが、それはある程度まで、こうした中間層から出た班長や組長が馬鹿馬鹿しくしてしまった面が少なくない。日本の戦争指導における多くのナンセンスはこういうところから発生していると思われます(関東大震災のときの自警団というのがやはり同じような意味を持っています。)急進ファッショの暴動の関係者、乃至右翼dな対の幹部にいかにも小学校教員、僧侶、神官、小工場の親方、小地主といった層の出身者が多いかという事はここにいちいちいて帰しませんが、兎も角このことが先に申しましたファッショ的イデオロギーにおいて労働者よりも中小商工業者や農民が重視される事に関連してくる訳であります。農村における指導層のみならず都会のスモール・マスターズでも大体農村出身者で、農村に何らかのつながりを持っているものが多い。だから農本主義は彼らの共通利害といっていい。また中央集権に対する「地方自治」の要求というのは、彼らがヘゲモニーを握っている地方的小宇宙に対する中央権力(官僚)の干渉排除の要求に他ならないのであります。官僚主義yは巨大財閥に対する反感は、こういう中間層において最も熾烈であります。それと共に先ほど申しました日本の国際的地位、つまり日本は国際的には先進資本主義国家の圧力を絶えず頭上に漢字ながら東洋の社会では一角の先進国として振舞っていたこと、一方でいじめられる立場にありながら、他方ではいじめる地位にあったという事、こういう日本の地位は、国内におけるこの層の社会的地位に酷似しております。そういうところから彼らは日本の大陸発展に内面的な共感を感じる訳です。先進資本主義の圧迫は、まさに国内における巨大資本の圧力と同じように感じられる。東亜の諸民族の日本帝国主義に対する犯行は、彼らの店や仕事場やそのほか彼らの支配する集団における乾分や目下の反抗と同じような心理的作用を彼らのうちに起こさせます。こうして彼らは日華事変や太平洋戦争の最も熱烈な支持者になったのであります。
未来社刊「現代政治の思想と行動」昭和39年5月より)
(至文堂 現代のエスプリ 特集ファシズム 丸山真男「日本ファシズムの思想と運動」より全文抜粋)

 あー長かった。でも精読に値する論文なんで苦痛ではなかったですが。
 この論文が発表されてからもう40年くらい経ちますが、今と殆ど変わってませんね。変わったところといえば今の日本は農村が疲弊、崩壊寸前にあること、巨大企業がすでに抜き差しならない影響下にあることくらいですか。纏めはもう少し待っててくださいね。あと少しだけ続きます。