日々雑論 歴史修正主義に関する考察27 日本「だけ」が悪いのか(実際悪いんだけどね)その5

 まー「博士の異常な愛情」にも出演していた田母神閣下が我が地元に来られるようですが、水とフッ素化合物と体液とエッセンスについて一石ぶってくれるのかと思うと、祭りの縁日にフリークスを観察する感覚で一寸聞きに行ってみようかな?という気にもなるんだけど、アチラガワを見つめた目で女性にエッセンスを渡さないとかナントカ演説されたらあまりにも怖すぎるのでやっぱ止めとこうとか思ってる。
 それはさておき
 日本「だけ」ガワルイノカヨ?ワルクナイヨーウェーンという妄言に対して「やーやっぱ日本の場合は非常に特殊でしょ」という訳ではじめたわけですが、首を突っ込めば突っ込むほど「日本」の持つその特殊性に辟易しております。しかし、辟易すると同時にまた嫌が応にも引き込まれるのも事実であって当初の一連の戦争犯罪の粋を確実に逸脱しているのも事実な訳で。
 という訳で、少し間が開きましたがやりますぜ。
 で、一体何をやるんじゃい?と言う訳なんだけど、「日本」における「差別問題」を抜きにして旧軍旧政府の数々の悪行や、敗戦後、まあ今のこの派遣、正社員首切り問題でもそうなんだけど、色々な諸問題を見たりするのは一寸間違いじゃないのか?という気がしてならず、まずこの「差別問題」に関してあくまでもド素人のレベルでしかないんだけど、とりあえず首を突っ込んでみようかと思ってみた訳ですな。うん。
 でもまたなんでそんな事をいきなり思いついたかというと、赤松啓介「差別の民俗学」を読了して思うところが沢山ありすぎたからであり、ここに各種のキモがあるからじゃないかと思ったからである。
 去年の話で申し訳ないんだけど、とっくの昔に解決済みで、最高裁でも簡単に蹴散らされた癖に、また「百人切りはウソ」と信じて疑わない頭のお目出度い連中が顔をひょっこり出してきたり、後沖縄の自決裁判問題なんかにしてもそうなんだけど本当に面倒くさいのだが、証言者、と称する連中のいかがわしさがどうしても抜けなかったりする訳だ。で、何が言いたいかと言いますとですね。
 情報採取の方法が決定的に間違っているのでは?
 という事を言いたいのですよ。
 以下、赤松啓介「差別の民俗学」より抜粋

(略)そうした村で、この村に「子供組」がありませんかとノート片手にペンを持って尋ねてみても、サアおまへんなあ、と答えられるに決まっていた。おっさん、子供の大将やっとる奴おらへんか? おーい、この頃、ガキ大将やっとるやつどないや、と怒鳴ってくれるとまもなく子供がガキ大将を連れてくる。彼は立派な「子供組」の大将であり、「頭」であった。(略)

 赤松啓介「差別の民俗学」は本当に楽しい本であり、もうここでは引用するのに抵抗がありまくりの内容も沢山なのだが、楽しいだけでなく「日本」の持つ病理の根深さも教えてくれる本であり、読み終えて非常に驚いたのだが、ノート片手にペン走らせて尋ねたり、レコーダーなる代物を用意して「さぁ取材だ。喋ってもらおうか」とやっても気構えちまって本当の事は喋る訳がない。「今では後ろめたくてたまらない」戦争犯罪の事なぞまず絶対に「漏らす」訳がないだろう。
 ならなんで「百人切り報道」が戦前あれだけ盛んに報道されて、オラが村の英雄となっちゃったの?となるわけだが、答えは簡単。
 当時の日本の社会が中国人を「人間」としてみていなかっただけの話である。 
 今でもそうなのかもしれないが、この「非常に根深い差別感情」は、表向き駆除されたかのように見えるけれどもどっこい地中の根っこはしっかり生きていて、こういったときに「ひょっこり」顔を出すのではないかと思われる。そうやって考えると、一連の歴史修正と言う名の歴史妄言主義を単なる「政治的な思惑」で片付ける訳にはいかない気がしてならない。
 まだまだ続きますぜ。

差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)

差別の民俗学 (ちくま学芸文庫)