日々雑論 歴史修正主義に関する考察30 学校で教科書が教える歴史ってどんなんだっけ?

 と言う訳で、大学入試のセンター試験問題でニッポソ在住の阿呆守の方々がいろいろ五月蝿いようですが、ここで今一度、大元に立ち返って考えてみようかと思った訳で。
 大元というのは他でもない、阿呆守連中が喚き散らす「自虐史観」って一体なんぞや?つー事ですわ。
 南京虐殺だの東京都市空爆だのはすっ飛ばして、極めて大雑把な言い方で纏めますとね。下は小学校の義務教育から上は大学の教養課程に到るまで、他国の歴史に首突っ込むときは「敗戦」と言ってるのに何故かアジア太平洋戦争だけは「終戦」という言い方がまかり通って居るんですよ。で、「日中戦争で泥沼の長期戦を抱えたまま太平洋戦争に突入し、無条件降伏を受け入れた事で戦争が終わった」と習ってきた訳ですな。
 例えばこれが第1次欧州大戦なんかだと、「ロシア革命が起こり、三国協商の中でロシアがソヴェトになり崩れたが、無制限潜水艦戦によるアメリカの対独参戦でドイツは負けた」と習ってきていると思うんですが、この「負けた」と「終わった」の温度差は小さいようでいてかなり大きいのではなかろうか?と思うわけで。
 で、日本の平和反戦教育ってのは本当に歪んでるなあと思うわけなんだけど、「やられた」事は声高に叫ぶ癖して「やった」事は全くといって良いほど聞こえてこないんだよねえこれが。物心ついたときから反戦といえば都市空襲の悲惨さとか、原子爆弾の恐ろしさとかを延々と聞かされて、さらに「わだつみ派」と「しらゆりの塔ひめゆりの塔*1の「綺麗な」自己犠牲エピソードをサブリミナル効果のように叩き込まれて「戦争はこんな悲惨な事になってしまうから、絶対に戦争を起こしてはいけませんよ」で〆るのが戦後日本における反戦平和教育のキモだった筈だし、実際そーやって叩き込まれたし、実際アチキの高校の修学旅行はヒロシマだったしね。
 こーやってヒステリックにやられた事「のみ」を大げさに喚き散らして快感に浸るのが「自虐史観」というならわからんでもないんだけど、どーもニッポソの連中が唱える「自虐史観」をみてみるとそれとは全く別物らしい。
 何が言いたいのかと言いますとですね、「日本帝国主義」の肯定か否定か、つまるところその一点に尽きるのでは?と思っちゃったりするわけです。
 昔は明治大帝と薩長藩閥体制の時代から今は阿呆太郎くんとフィクサー小沢一郎に見せかけた大企業−自民−官僚−マスコミの「鉄の四角形」体制に到るまで、日本は帝国主義でありそれが変わったことは無い。
 で、この「日帝主義史観」と言っても良さそうなものを否定するのか肯定するのか、という問題なんだろうという事なんだけど、そーやって考えていくと自分なりに「やられた」だけの近代史を学ばされた事とかが非常にすっきりするんだなこれが。
 で、要するに「帝国主義というものを是とするか、非とするか」で判断が変わってくるんじゃねーの?と思っちゃったりするわけだ。ここで性質が悪いのは、この「日帝主義史観」に基づいて発想する輩に限ってそれを全く自覚してねえ、というところにある訳で。
 今日、行きつけの中華料理屋さんでテレビ観てたら中国の車のデザインコピー問題を取り上げてたんだけど、リポーターが「中国はこれだから駄目だ」みたいな事を散々言っていた。
 あのですねー、んな事言ったらトヨタでヴェロッサつー車がありましたがランチアのコンセプトカー、ディアゴロスにクリソツ、つーかまんまパクリ劣化版としか言えんデザインだったのはどー申し開きするんですかいオゥコラ? 
 更に言うなれば日産のパオとルノーカトルなんざ横に2台並んだらどっちがどっち?だし、日産フィガロアウトビアンキビアンキーナに到ってはビアンキーナ自体知ってる奴いねぇからパクッちまったってワカンネエからヤッチマエ!的な感じ満々だったぜ。
 今の中国の状態はまぁ傍からみてて「生みの苦しみ」という感じを受けるんだけど、話がそれたので元に戻すと、我々は意識的であれ無意識であれこの「日本帝国主義史観」こと「日帝史観」があまりにも溶け込みすぎ、歴史というものを俯瞰してみる事が既に出来なくなっているのではないか?という事が言いたかったんですなこれが。
 で、お前はどうなんだ?って?
 俺かい? 俺はただの面白主義者さ

*1:ABCD包囲陣のDをドイツと公然と言い放ったどっかのひとのように消しちまおうかとも考えましたがそれも…ねえ(笑)というわけで訂正させて頂きました。bougusnews愛読者様、有難うございました