日々雑論 小さな声で「死刑反対」と言ってみよう

 まあ、ニッポソ人ご用達のウサンクサイケイ下野なう新聞のデンパぶりもエンジン全開な訳ですが、「下野なう」後による負け犬の遠吠えを観察するのもいーかげん飽きつつあるのでそれから少し離れて、死刑廃止の事でも述べてみようかと思ったり。
 で、世の中ぐるりを見渡してみると声高々に死刑死刑を連発する向きもあるようだけど、どーもこれらの論調なんかを見ていると、なんか一種の気持ち悪さを感じてしまうのだね。まあ、その気持ち悪さが何処から来るのかずーっと考えていたのだけど、その気持ち悪さの正体がどうにも説明がつかなかった訳だ。
 で、まあなんとなくぼんやりと呆けていたときに頭の中に浮かんでいたのが「絶対更生しないような奴を生かしておいても無駄だから死刑にしてしまえ」というどっかでよく聞く、ワンパターンの内容に対して適当に頭の中で呆けていたのだけど、この「更生ウンヌン」が妙に引っかかっていた訳で。
 何が引っかかっていたのかと言いますとですねえ…
 戦前の「思想犯に対する転向システム」と被るんだよなあ…と。
 もっと突き詰めていくと、日本の「刑罰」に対する発想が「更生」を目的にしているんじゃないかと思うようになってきたのだな。
 「更生」目的で何が悪いの?となるんだろうが、「悪い」のではなく*1もう既に「破綻している」のではないか?と思うようになったのだ。
 欧米先進諸国なんかでの「刑罰」の発想は「犯した罪に対する贖罪」つまり、犯罪に対しての償いを重点に置かれているように見える。だからこそ「本人」が「反省」しようがしてまいが「生きて罪を償わなければならない」という様に見受けられる。
 では、日本の場合はどうかというと…
 「犯人」を「悪かった」と更生できさえすればオカミからのある程度の「お目こぼし」により「お情け」で「生かしてもらえる」と認識した方が良さそうだ。
 ただ、あくまでも「オカミ」の「お情け」で「生かしてもらっている」だけであり、生殺与奪は全て「オカミ」の掌にあるため、少しでも逸脱したら即刻捌きの鉄槌が下される訳で。とまあ、こうやって考えてゆくと「更生の可能性が無い犯罪者は死刑にするべきだ」という発想の根本が見えてくる。
 またここでも顔を出すのが「ムラ的社会」と言う奴で。
 社会的異端排除の為の「ムラ的社会」の維持の為、あまりにも逸脱してしまった異端に対しての「強制排除」の究極のシステムとして「死刑」が機能しているのだろう。だからこそ、死刑囚の名前や実行が公表されたりすることにあまり違和感を持つ事の無い連中がる訳だし、「オカミ」から提供される「システムからの異端」の「処分」を娯楽として楽しめる地盤が今でもしぶとく根を張っているのではないかと思うのだ。
 「権力」に「盲従、隷属」し、それから外れた「異端」を徹底的に排除しようとする「ムラ的社会」の前近代的システムがしぶとく根を張り続けている以上、日本から「死刑」は無くならない気がしてきたが、既にその「ムラ的共同体」は崩壊しているのは近年における犯罪の「誰でも良かった」「死刑になりたかった」という動機が出てくる事からも明らかだ。崩壊している「ムラ的社会」から既に疎外されているからこそ究極の排除システムとしての「死刑」にも動揺しない訳だし、一方で凶悪犯罪に対しての過剰なまでの死刑存続の掛け声や、死刑執行の見世物化は、未だにその「ムラ的社会」が機能していると信じ込ませよう、もしくは信じて疑わない連中の醜悪さを曝け出しているだけのように思える。

*1:勿論悪い面だってあるんだけど。「凶悪犯罪者」を「思想犯」に、「更生」を「転向」に入れ替えてみよう。気持ち悪さ倍増ですね