歴史修正主義に関する考察 その33 全国のネット阿呆守のみなさ〜ん(嘲)

 とまあ、いつもの調子でいつもの如くロクに本も読まずに「ネットで真実が!」と喚きくさるネット阿呆守の方々を小馬鹿にし倒すエントリな訳ですが、その阿呆守連中の根底には「矮小なムラ意識」と「無意味な選民観」が「インテリに対するコンプレックス」という調味料で味付けされた結果でしかなく、ただの「憂さ晴らし」としてのものでしかないと認識している。ただ、この「矮小なムラ意識」と「無意味な選民観」だけしか心の拠り所がないというのは却って厄介な訳で。躁うつ病の安倍ちゃんが総理大臣職を放り投げようが、べらんめえオヤジ麻生が衆院選挙で大敗しようが、ウサンクサイケイ新聞こと産経が「下野なう」しようが、んなこたぁオイラ関係ナイモンネーとばかりにますますカルトと化してまあ面白いといや面白いんだけどこんな場末の毒吐きブログにも変なのが時折沸いたりして楽しいやら困っちゃうやらで。
 まあ前置きが長くなりましたが、ちょっと抜粋

(略)そしてひるがえって、日本の事を考え、「民族主義」を考えた。何に違いがあるのか、抑圧された民族の尊厳を掲げた戦いと同じ様に、日本を誇りたい。なぜ誇れなかったのか。これは日本に自己欺瞞があるためだと思った。過去の過ちを隠したり、ごまかしたりする政府のやり方こそ、民族の尊厳を傷つけ失ってきた。そのため過去に植民地支配した国々からも決して尊敬されない戦後の道を歩んでしまっている。(略)

 今、中東関係の本をちまちまと齧っている最中なんだけど、極めて大雑把かつテキトウな認識として、オスマン−トルコという強大な帝国の庇護の下、きわめて緩やかな部族社会を形成していた中東国家が帝国主義国家間のパワーゲーム、つまる所当時の大英帝国とロシアのパワーバランスの餌食になり、ぐっちゃぐちゃにされた中で民族国家というくくりが出てきたという解釈が自分の中にある。で、上記の抜粋部分なんだけど、戦前の一人一殺主義で有名な右翼結社血盟団構成員を父にもつ、日本のローザ・ルクセンブルグ、革命の女闘士といってもいいだろう、重信房子の私記の一部である。
 600馬力を超えるグループBアウディを豪快に捻じ伏せて縦横無尽に暴れまくった最強の女性WRCドライバー、ミシェル・ムートンとかも居るわけだし、こうやって考えると男性と女性の差ってあるとは思うんだけど、ただ「ある」というだけの気がしてならん訳でその気になりゃヤローだろうが女性だろうがやれんじゃん、という気がしてならないんだがそれはそれで別の話題になるからおいといて話を元に戻すが*1、この一文を目にしたとき、重信房子の根底にある民族右派としての源流を感じた。翻って考えるに、これこそが今の「ネット阿呆守」とかに一番欠落している視点なのだろうとも思ってしまう訳なのだ。
 まあ、まだ読んでいる途中なので最終的な結論は避けるが、中東のおべんきょうの一環として、また一介の女子学生があそこまで突き抜けてしまった行動力の根っこを知りたくて手出ししたのだが、根底にある「右派としての民族主義」というものの根の深さと覚悟の重さを改めて感じた訳だ。それに比べてネット阿呆守の軽さはどうよ? 在特会とかいうのの乱暴狼藉振りとか、ナノゼリのおっちゃんとかみても、どこをどう見てもただの胡散臭い連中が変な漢字を適当に並べて弱者イジメしているだけである。
 この落差の大きさは一体何なんだ?

日本赤軍私史 パレスチナと共に

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*1:近いうちに性差別とかいろいろ考えてみたいと思ってます