日々雑論 ウサンクサイケイ抄8月15日

産経抄 8月15日
日本でラジオ放送が始まったのは意外と新しく、大正14(1925)年3月のことである。夏目漱石森鴎外もこの「文明の利器」を知ることはなかった。先の戦争が終わったときも、放送開始後20年しかたっていなかったことになる。
▼そのせいかどうか昭和20年8月15日正午、昭和天皇が「終戦の詔(みことのり)」を述べられたラジオの玉音放送もかなり聞き取りにくかったという。「詔」そのものも格調高い文語調だった。それだけにラジオを聴いた人たちの多くは、事態を正確に知るのに時間がかかったようだ。
▼『新潮45』8月号の特別企画「私と玉音放送」に寄稿している作家、佐藤愛子さんの場合もそうだった。当時22歳で、結婚していたが、雑音でほとんどわからず舅(しゅうと)に聞いた。「皆、苦しいだろうがしっかり頑張ってくれということやろう」というので気が抜けた。
▼日本が降伏したことを知ったのはその日の午後になってからだったという。夜になると、灯火管制をつづけるか、やめていいかが問題になった。さらにその1日か2日後、部屋で子供を遊ばせていたとき突然、止めどなく涙があふれてきたのだそうだ。
▼佐藤さんはその悲しみの源を自ら、こう推測している。「みんなあんなに一生懸命戦ったのに。若者も壮年も老人、女、子供、みんなが国のために心身をすり減らしたのだ。私の涙の中には確かに戦友意識にも似た同胞への想いがあったと思う」。
▼恐らく当時の多くの人が抱いた感情だろう。敗戦を確認するのに時間がかかった分だけ、お互いをいたわる心が育(はぐく)まれたのかもしれない。そんな気持ちを持てたからこそ、奇跡ともいえる復興をなしえたのだ。65年たとうと、忘れてはならない。

はい、安倍珍好みの「美シヒニッポソ」談話はウゼェのでどっかへうっちゃって

ウサンクサイケイ抄 8月15日
日本でラジオ放送が始まったのは意外と新しく、大正14(1925)年3月のことである。夏目漱石森鴎外もこの「文明の利器」を知ることはなかった。先の戦争が終わったときも、放送開始後20年しかたっていなかったことになる。
▼そのせいかどうか昭和20年8月15日正午、昭和天皇が「終戦の詔(みことのり)」を述べられたラジオの玉音放送もかなり聞き取りにくかったという。要するに当時の日本製ラジオはそれだけ出来の悪い真空管などで構成されていたという事であり、この小噺だけでもMADE IN JAPANの品質を物語る。「詔」そのものも一般人にはよくわからない文語調だった。それだけにラジオを聴いた人たちが何を言っているのか判らなかったようだ。敗戦の事実を語るのが余程悔しかったのか、敗戦という事実を受け入れ、それを全国へ知らせたくなかったのか。
▼『産経新聞』の日常企画と化している管総理と民主党ヘイトスピーチを垂れ流す記者崩れ、阿比留瑠比の場合もどうだったろうか。管談話が発表される折、先の参議院選民主党が大敗していたが、本人の明らかな知識不足と不勉強でこの談話の内容が全く理解できずに自分のブログのお友達であるヒッキーネトウヨに聞いた。「管総理はサヨクで売日なんだよ(ワラ)」という、コメ欄へのカキコがたくさんあったので安心した。
▼管総理が談話を発表し、日韓併合に対する明確な謝罪とお詫びを政府の公式見解とするのを知ったのはその日の午後になってからだったという。夜になると、反管総理キャンペーンをうつかどうかが社内で問題になった。さらにその1日か2日後、部屋で子供を遊ばせていたとき突然、止めどなく涙があふれてきたのだそうだ。
▼阿比留瑠比はその悲しみの源を自ら、こう推測している。「みんなあんなに2ちゃんやFAX攻撃やニコニコ動画で一生懸命戦ったのに。あんなに反特亜キャンペーンをぶちあげたのに。私の涙の中には確かに戦友意識にも似た同胞への想いがあったと思う」。
▼恐らく在特会などといった泡沫極右の連中とごく一部のネトウヨヒッキーが抱いた感情だろう。自らの愚かさを確認するのが出来ない分だけ、異国に居ながらも一生懸命生きる人達を呪う心に支配されてしてしまったのかもしれない。そんな気持ちがあったからこそ、在特会は子供に対しての狂気とも言えるヘイトスピーチと嫌がらせをやってしまったのだ。何年たとうと、忘れられるものではない。